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日露戦争における戦闘の一つ。ロシア帝国が太平洋艦隊の母港としていた旅順を守る要塞を、日本軍が攻略した。
旅順攻囲戦 第三軍は、7月に入り、ロシア軍の前進陣地の攻撃を開始。8月には死傷者1,000人以上を出したが、旅順要塞の包囲が完成した。海軍はこれを受けて黒井悌次郎海軍中佐率いる海軍陸戦重砲隊による旅順港の砲撃を開始。旅順要塞への攻撃が濃厚になった8月、ロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)司令ヴィトゲフトは砲撃による艦隊の損傷を避けるため、ウラジオストクへ回航しようと旅順港を出た。だが旅順艦隊は日本の連合艦隊と黄海海戦で交戦して損害を受け、回航を諦めて旅順港へ引き返した(ただし一部損傷艦船はドイツの租借地であった山東半島に逃げ込んだが、同盟国であったドイツはこれら艦船の武装解除を行なった)。こうして旅順艦隊はバルチック艦隊の到着まで旅順要塞による艦隊の保全を決めた。このため、日本軍の旅順攻撃はさらに不可避のものとなった。
第一回総攻撃 8月19日、日本第三軍は、旅順要塞に10万発以上の前例の無い大砲撃を加えたのち、要塞東北部への突撃を開始する(第一次旅順総攻撃)。しかし、砲撃のほとんどが山砲・野砲など小口径のものであったため保塁・砲台はさほど破壊されておらず、そこへ突撃していく日本軍は多大な損害を被った。それでも、盤竜山の東保塁・西保塁を占領したが、砲弾が尽き、死傷者数が激増したため攻撃を中止した。この攻撃で日本軍は戦死者5,000、負傷者10,000の大損害を受けた。これはほぼ一個師団分の兵力である。乃木らは、突撃による攻撃では要塞陥落はできないと判断。要塞前面ぎりぎりまで塹壕を掘り進んで進撃路を確保する戦法に切り替える(正攻法併用による攻撃計画の策定)。9月には敵主防御線の前面に存在する前進陣地の攻略を目的とした攻撃(総攻撃ではない)を行い、龍眼北方保塁・水師営周辺の保塁群・南山披山など、203高地以外の戦略目標の占領に成功する。 第二回総攻撃 第一回総攻撃失敗後、大本営は、有坂砲で有名な有坂成章少佐の発案で、日本の主要な港に配備していた二八センチ榴弾砲(当時は二十八糎砲と呼ばれた)を送り込む。通常はコンクリートで砲架(砲の台座のこと)を固定しているため移動が難しく、まして戦地に設置するのは困難とされていたが、工兵の努力によって克服している。10月26日、二八センチ砲も参加し、第二回旅順総攻撃を開始。その前に旅順港の一部が見渡せる観測点を確保していたので(南山披山の占領)、旅順港に対する砲撃も行い旅順艦隊に損害を与える。しかし、要塞の主要な防衛線を突破するには至らず、要塞攻略は失敗。戦死者1,000を数えた。
第三回総攻撃 10月バルチック艦隊がウラジオストックに向かったという報を受け、陸軍は海軍から矢のような催促を受けるようになる。陸軍は内地に残っていた最後の現役兵師団の精鋭、第7師団を投入して第三軍に第三回旅順総攻撃を指令した(11月26日)。11月28日、有志志願による突撃隊を作って、中村覚少将の指揮のもとに攻撃を行う。(夜間の敵味方の識別を目的として、隊員全員が白襷を着用したので白襷隊と呼ばれた)要塞へ決死の奇襲突撃を試みるが、ロシア軍からの探照灯照射により、目印の白襷が光に反射したため、かえって敵の集中砲火を浴び要塞突破に失敗する。
当初の攻撃計画が頓挫したところで、第三軍は目標を要塞正面から203高地に変更した。この後、ロシア軍と日本軍は203高地を巡って何度も奪い奪われを繰り返した。11月29日、戦況の不振を懸念した満州軍総参謀長児玉源太郎大将が旅順方面へ南下する。途上、203高地陥落の報を受けたが後に奪還されたことを知るや児玉は大山に電報を打ち、北方の沙河戦線より歩兵第17連隊を南下させるように要請する。 日本軍は12月1日から3日間を攻撃準備にあて、攻撃部隊の整理や大砲の陣地変換を行なった。12月4日早朝から203高地に猛撃を加え、203高地の2つある頂上の東北角、西南角を1時間半ほどで占領、そして山頂に機関銃を配備してロシア軍の逆襲を撃退し203高地を完全に占領した。戦死者は約5,500。ロシア太平洋艦隊の全滅が確認され、児玉は煙台にある満州軍司令部へと戻った。
ロシア軍の降伏 12月15日、ロシア軍内の人望高かったロマン・コンドラチェンコ少将が戦死したことでロシア軍の士気は非常に落ち込み、首脳部においても抗戦派は勢いを失う。12月31日未明より日本軍は重要拠点である望台への攻撃を開始、1905年1月1日にロシア軍は降伏を申し入れた。1月5日、旅順要塞司令官アナトーリイ・ステッセルと乃木は旅順近郊の水師営で会見し、互いの武勇や防備を称えあい、ステッセルは乃木の2人の息子の戦死を悼んだ。この様子は「水師営の会見」として広く歌われた。
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乃木希典 のぎ まれすけ
嘉永2年11月11日~大正元年9月13日 (1849~1912) 東京生まれ。陸軍軍人。父は長府藩士。第2次長州征討に参加。明治4年(1871)陸軍少佐に任官。萩の乱、西南戦争に従軍。20年(1887)戦術研究のため川上操六とドイツ留学。日清戦争では歩兵第1旅団長として従軍し、旅順を占領。29年(1896)第3代台湾総督に就任。37年(1904)大将へ昇進。日露戦争では第3軍司令官として旅順攻略を指揮するも、困難を極めた。戦後、軍事参議官となるが、40年(1907)から明治天皇の意を受けて学習院の院長を兼任。明治天皇大喪の日、妻静子とともに殉死。
1904年日露戦争にて長男、次男、共に戦死。 |
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児玉源太郎 こだま げんたろう
嘉永5年閏2月25日~明治39年7月23日 (1852~1906) 山口生まれ。陸軍軍人。父は徳山藩士。戊辰戦争に参加したのち、陸軍へ入る。佐賀の乱、神風連の乱、
西南戦争に従軍し、士族の反乱を鎮圧。その後、昇進を重ね、陸軍大学校校長、陸軍次官を経て、 明治31年(1898)に第4代台湾総督に就任した。その間、第4次伊藤内閣の陸相や第1次桂内閣の 内相などを兼任。37年(1904)大将。日露戦争では満州軍総参謀長として活躍し、大山厳満州軍総司令官を補佐。 39年(1906)陸軍参謀総長となる。 |
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東郷平八郎 とうごう へいはちろう
弘化4年12月22日~昭和9年5月30日 (1848~1934) 鹿児島生まれ。海軍軍人。父は鹿児島藩士。戊辰戦争に従軍。維新後、明治4年(1871)にイギリス海軍に留学。帰国後、海軍中尉となる。日清戦争では浪速艦長として活躍。その後、海軍大学校長、常備艦隊司令長官、舞鶴鎮守府司令長官等を歴任し、日露戦争前の36年(1903)に連合艦隊司令長官に就任。日露戦争ではみずから主要作戦を指揮し、バルチック艦隊を日本海海戦で全滅させた。大正2年(1913)元帥。3年(1914)から7年間東宮御学問所総裁をつとめた。海軍の長老として昭和期になってもその影響力が大きかった。
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大山巌 おおやま いわお
天保13年10月10日~大正5年12月10日 (1842~1916) 鹿児島生まれ。陸軍軍人、元老。父は鹿児島藩士。西郷隆盛の従弟。明治3年(1870)フランスに留学、普仏戦争を観戦。翌年帰国。陸軍少将へ昇進後、再度フランス留学。帰国後、陸軍の建設に当たる。西南戦争時、別働第1旅団司令長官。参謀本部次長、陸軍卿、第1次伊藤内閣から第2次松方内閣までの各内閣の陸相を歴任。この間、陸軍大将、枢密顧問官となる。日清戦争時は元老として遇され、第2軍司令官。31年(1898)元帥。翌年に参謀総長となる。日露戦争では満州軍総司令官。40年(1907)公爵。大正3年(1914)から内大臣をつとめた。
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![]() 現在の旅順港 |
![]() 現在の旅順港 停泊中の戦艦が見える |
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二十八糎砲(にじゅうはちさんちほう)
日露戦争で日本陸軍が使用した大砲である。
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150mmカノン砲
1877年にロシア帝国が制式採用した口径152mmのカノン砲である。
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水師営会見所
旅順水師営のある農家で 、日露戦争中の1905年1月15日に、旅順軍港攻防戦の停戦条約が締結された。 日本代表は第三軍司令官・乃木希典大将、ロシア代表は旅順要塞司令官・アナトーリイ・ステッセル中将であった。 ここは現在でも保存されていて入場料金を支払えば、見学可能である。 |
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水師営会見
中央二人が乃木将軍とステッセル将軍 乃木の紳士的で寡黙な雰囲気は、諸外国の記者が持つ日本人観に大きな影響を与えたといわれている。 乃木はステッセルらロシア軍幕僚にも帯剣を許し、従軍記者たちの再三の要求にも関わらずロシア軍との会見風景は一枚しか撮影させず、彼らの武人としての名誉を重んじた。 |
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爾霊山(にれいさん)
日露戦争ではロシア海軍の基地のあった旅順港を巡る日露の争奪戦による激戦地となったところで、第3軍の司令官として出征した乃木希典の漢詩には二〇三(に・れい・さん)の当て字で爾霊山(にれいさん)と詠まれた。 戦争終結後、乃木大将は二〇三高地に散乱している銃弾や砲弾の薬きょうなどを集めさせ、鋳造し直して砲弾型の碑を作らせました。 |
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自決当日の乃木夫妻
乃木は、1912年9月13日、明治天皇大葬の夕に、妻とともに自刃して亡くなった。まず静子が乃木の介添えで胸を突き、つづいて乃木が割腹し、再び衣服を整えたうえで、自ら頚動脈と気管を切断して絶命した。 |
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明治天皇(めいじてんのう)
嘉永5年9月22日(1852年11月3日) - 明治45年(1912年)7月30日)は、日本の第122代天皇。 諱は睦仁(むつひと)。御称号は祐宮(さちのみや)。お印は永(えい)。 倒幕・攘夷派の象徴として、また近代国家日本の指導者として活躍した。 その功績から戦前には、明治大帝、明治聖帝、睦仁大帝とも呼ばれたこともあった。 |
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大正天皇(たいしょうてんのう)
1879年8月31日 - 1926年12月25日)は、日本の第123代天皇。 諱は嘉仁(よしひと)。幼少時の御称号は明宮(はるのみや)。お印は壽(じゅ)。 明治以降の近代天皇制で初の一夫一妻制をとった天皇である。 |
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昭和天皇(しょうわてんのう)
明治34年(1901年)4月29日 - 昭和64年(1989年)1月7日)は、日本の第124代天皇。 諱は裕仁(ひろひと)。幼少時の御称号は迪宮(みちのみや)。お印は若竹(わかたけ)。 歴代天皇の中で在位期間が最も長く、最も長寿であった。 |
| ※フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』引用。 | Tweet |
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